王 常(おう じょう、? - 36年)は、中国の新代から後漢時代初期の武将。後漢草創期の功臣の1人。字は顔卿。豫州頴川郡武陽県の人。子は王廣。最初は緑林軍の部将、下江軍の頭領、更始帝(劉玄)配下の武将であった。
王莽の統治の末期に、弟の仇を討ったために江夏郡へ逃亡した。その後、王匡、王鳳を頭領とする緑林軍に加わり、偏将として活動する。地皇3年(22年)、疫病により緑林軍を分散しなければならなくなると、成丹、張卬[1]と共に藍口聚(南郡編県)へ向かう。そこで自軍を「下江軍」と号し、王常はこの軍の頭領とみなされた。まもなく新の納言将軍荘尤(厳尤)、秩宗将軍陳茂の攻撃を受けて下江軍は大敗したが、石龍山・三鍾山(南陽郡隨県等)付近で再び勢力を回復した。その後、王常らは上唐郷(南陽郡舂陵県)で荊州牧の軍を撃破し、宜秋聚(南陽郡平氏県)を拠点としている。
同年末、舂陵軍の劉縯(劉秀の兄)が合流を求めて宜秋聚に交渉にやってきた。張卬と成丹は、劉縯の家柄を考えれば、その下風に立たざるを得ないと考え、合流に消極的であった。しかし、合流を望む王常は、「南陽劉氏の者たちは皆深謀遠慮があり、必ずや成功する」と説得し、2人を始めとする他の下江軍部将にこれを承認させた。地皇4年(23年)1月、舂陵軍・下江軍の連合軍は、泚水で新の前隊大夫(新制の南陽太守)甄阜、屬正(新制の都尉)梁丘賜を撃破し、討ち取っている。
更始政権での活躍 [編集]
その後、緑林軍が再集結した連合軍においては、劉縯と平林軍出身の劉玄とのいずれを天子として擁立するかが、諸将の間で議論となった。この際に王常は、南陽の士大夫(舂陵の諸将など)と共に劉縯を推し、その他の諸将は劉玄を推している。結局劉縯は、分裂を避けるために、劉玄にその地位を譲った。こうして更始1年(23年)2月、劉玄は更始帝として即位し、王常は廷尉に任命され、知命侯に封じられた。
まもなく、王常は劉秀、王匡らに従って昆陽(頴川郡)等へ進撃した。同年6月、王常は王鳳とともに昆陽城に立て篭もり、援軍を連れて戻ってきた劉秀と協力して、大司空王邑、大司徒王尋らが率いる新の主力部隊を殲滅した(昆陽の戦い)。更始2年(24年)2月、更始帝が長安に遷都すると、王常は行南陽太守事とされ、鄧王にも封じられ、8県を食邑とし、劉姓を賜った。法規を遵守して、南方の人々からその統治を賞賛されている。
後漢での活躍 [編集]
建武2年(26年)、王常は妻子を連れて光武帝のいる洛陽を訪れ、肉袒(上半身肌脱ぎ)して降伏した。光武帝は王常の到来を喜び、これを赦して左曹に任命し、山桑侯に封じた。その後、王常は漢忠将軍に任命され、荊州に割拠していた鄧奉、董訢の討伐に従軍し、さらに北方へ転じて、河澗郡、漁陽郡を平定した。
建武5年(29年)秋には、光武帝に従って蘇茂、龐萌を討伐し、力戦奮闘した。建武6年(30年)、長安に駐屯して隗囂に備える。建武7年(31年)、横野大将軍に任命され、他の将軍よりも高位となる。そして隗囂配下の高峻を朝那(安定郡)で破り、他の隗囂軍や羌軍を平定した。建武9年(33年)、内黄(魏郡)の反乱を鎮圧し、さらに北方の故安(涿郡)に駐屯して、盧芳に備える。
建武12年(36年)、王常は故安駐屯中に亡くなり、節侯の号を追贈された。子の王廣は、山桑侯を継承し、後に石城侯に転封されたが、永平14年(71年)に楚王英の反乱に関与したため、改易された。
人物像 [編集]
慎み深く謙虚で、倹約質素な人柄であるが、勇猛果敢な戦いぶりを度々示した将軍である。また、下江軍時代に説得交渉に来た劉縯とは、「断金」[2]の交わりの仲になったという。
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